「本官も後を追う」と言った中将は、なぜ裁かれなかったのか。富永恭次と陸軍の組織防衛

「君たちだけを死なせはしない。本官も必ず最後の一戦で後を追う」

フィリピン決戦のさなか、特攻隊員を送り出す訓示でそう語ったと伝えられる司令官がいます。

第4航空軍司令官・富永恭次中将。この訓示の文言は、元陸軍報道班員の高木俊朗が戦後に著した『陸軍特別攻撃隊』の記述に遡る伝聞で、一言一句が確定しているわけではありません。

ただ、戦時中に同軍司令部に勤務した元将校が、後年の国会公聴会で同趣旨の言葉を証言しています。これには後で触れます。

確実な事実はこうです。1945年1月、米軍がルソン島に上陸して戦況が絶望的になる中、富永は司令部をルソン島北部のエチアゲから台湾へ移しました。上級司令部の正式な認可のないままの移動です。戦史叢書(防衛庁の戦史室が編纂した公刊戦史)によれば、大本営は第4航空軍の根拠地を台湾に移すことなど全く考えておらず、同軍はフィリピンと運命を共にすべきものと位置づけていました。現地には約1万とされる将兵が残されました(あくまで概数です)。

死を命じた側の司令官が、命じられた側を残して戦場を離れた。しかもその行為が、日本の軍法会議(軍内部の刑事裁判)で裁かれることは、ついに一度もありませんでした。

なぜか。調べていくと、これは富永個人の問題であると同時に、日本陸軍という組織の構造の問題だったことが見えてきます。

「独断」は二度目だった

富永恭次は1892年、長崎県生まれ。陸軍士官学校25期・陸軍大学校35期のエリートです。

意外に思われるかもしれませんが、彼の「独断」はフィリピンが最初ではありません。

1939年に参謀本部第一部長(作戦部長)となった富永は、1940年の北部仏印(現在のベトナム北部)進駐に際して現地に赴き、武力を背景とした強硬進駐を推進しました。

9月2日には独断で南支那方面軍に進駐準備を命じ、現地交渉を無視する形で進駐が強行されて武力衝突が発生。この責任を問われ、9月25日に沢田茂参謀次長によって第一部長を更迭されています。

普通なら、ここでキャリアは終わりです。ところが更迭からまもない1941年4月、富永は東條英機陸相の下で陸軍省人事局長(将校の人事を差配する要職)に就任します。

1943年3月には陸軍次官に栄進し、人事局長の事務取扱も兼任。つまり陸軍の人事権を握り続けたのです。「東條の腰巾着」という評が通説になっています。独断で失脚し、人脈で復活する。このパターンを、彼は二度繰り返すことになります。

フィリピンへ。陸軍初の特攻隊と万朶隊

1944年8月30日、富永は第4航空軍司令官に親補(天皇による直接の任命)され、9月にマニラへ着任します。フィリピン決戦(捷一号作戦)の陸軍航空を統括する立場です。

陸軍航空初の特別攻撃隊「万朶隊」は1944年10月21日に茨城の鉾田教導飛行師団で、「富嶽隊」は浜松教導飛行師団で編成されました。部隊名は梅津美治郎参謀総長が藤田東湖の「正気の歌」から命名しています。注意したいのは、航空特攻が「現場の突発的な発案」ではなかったことです。1944年初頭から陸軍中央で組織的な検討と機材の準備が進められており、特攻は中央主導の既定路線でした。富永は、その実行を現地で指揮する立場にあったわけです。

万朶隊には、記憶されるべき二人の隊員がいます。

隊長の岩本益臣大尉は、低空から爆弾を跳ねさせて命中させる跳飛爆撃の第一人者でした。部下には「体当たりをせず、爆弾を投下して帰れ」と指示していたと伝えられます。しかし本人は特攻出撃の前、マニラへの打ち合わせに向かう移動中、米軍機に撃墜されて戦死しました。

もう一人、佐々木友次伍長は当時21歳。1944年11月の第1回特攻以降、9回出撃を命じられ、9回生還しました。上官や参謀から「必ず死んで来い」「今度は爆弾ではなく体当たりで船を沈めろ」と繰り返し命じられながら、爆弾を命中させて帰ることを選び続けた人です。戦後は北海道で生き、2016年に亡くなりました。晩年に本人を取材した鴻上尚史氏の『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)に、詳しい経緯が残されています。

台湾への無断撤退

1945年1月、米軍のルソン島上陸で戦況はいよいよ絶望的になります。富永が司令部を台湾へ移した経緯については、日付や手順に史料の揺れがあり、「完全な独断」だったのか「一部に黙認や曖昧な了解があった」のかも記述に濃淡があります。

ここは「諸説ある」と言うべきところです。ただし前述のとおり、戦史叢書は「大本営は台湾移転を全く考えていなかった」と明確に記しています。

南方軍総司令官・寺内寿一元帥は激怒し、台湾から報告に来た隈部正美参謀長を自ら激しく叱りつけました(叱責の直接の相手は参謀長であって、富永本人への叱責の場面は確認されていません)。大本営も憤激しました。

そして処分です。

1945年2月、第4航空軍は戦闘序列(作戦部隊としての正式な編成)から外されて廃止。富永個人は2月23日付で待命(任を解かれて次の命令を待つ身分)、5月5日付で予備役編入(現役を退くこと)。

以上です。軍法会議には付されませんでした。当時から「この処分は厳正を欠く」との批判があったことが記録されています。

なぜ軍法会議にかけられなかったのか

条文の上では死刑もありえた

陸軍刑法(明治41年法律第46号)は逃亡罪を定めており、「故なく職役を離れ」た者は敵前の場合、死刑・無期もしくは5年以上の懲役または禁錮と規定していました(第75条)。

司令官が尽くすべきを尽くさず敵に降る行為や、抗命(上官の命令に従わない罪)も重罪です。

そして条文上、将官を除外する規定はありません。法律だけ読めば、富永の行為は最も重い罪に問われうるものでした。実際、兵卒の敵前逃亡には死刑が適用されえたのです。

ところが大戦末期、高級指揮官による戦域離脱は、例外なく待命・予備役編入・左遷といった人事処分で処理され、軍法会議になった事案はほとんどありません。

富永だけが特別扱いされたのではなく、「将官の失態は人事で処理する」のが陸軍の実務慣行だったのです。

佐藤幸徳の事例が示すもの

では、なぜ軍法会議を避けたのか。その力学を明示的に記録している事例があります。インパール作戦の佐藤幸徳中将です。

1944年6月、補給が完全に断絶する中、佐藤は軍命令に反して独断で退却しました。

陸軍刑法の抗命罪に該当しうる、陸軍史上でも異例の事件です。ところが軍上層部は、軍法会議を開けば作戦の実態と上層部の責任が公の場で審理されることを恐れ、佐藤を「心神喪失」と扱うことで裁判そのものを回避し、予備役編入で処理しました。

鑑定にあたった軍医は「精神状態は全く正常」としており、鑑定が司令部の期待に沿わなかった旨を戦後に証言しています。

富永の場合も、もし軍法会議が開かれれば、特攻命令の実態、大本営と現地の作戦指導、撤退をめぐる上級司令部の関与までが審理の対象になりえました。

佐藤の事例で記録されたのと同じ組織防衛の力学が、富永にも働いたとみられます。

ただし、この因果を富永のケースについて明言した学術文献は確認できていないため、ここは推認に留めます。

「東條の庇護」では説明できない

ここで一つ、よくある誤解を退けておきます。「東條人脈だから守られた」という説明です。

富永が台湾へ移った1945年1月、東條英機はすでに失脚しています(1944年7月)。

庇護者はもういなかったのです。それでも富永は裁かれなかった。

同様に、1945年4月23日にビルマ方面軍司令官としてラングーンを飛行機で脱出し、隷下部隊や在留邦人を残した木村兵太郎に至っては、処罰どころかその後大将に昇進しています(木村は戦後、東京裁判でA級戦犯として絞首刑になりました)。

つまりこれは、特定の人脈の問題ではありません。

将官を人事で処理し、軍法会議を忌避する。個人が誰であれ作動する、組織の構造の問題だったのです。

東條人脈で出世した男が、東條失脚後もなお裁かれなかったという事実こそが、それを示しています。

裁いたのは、日本ではなくソ連だった

ここからが、この話のもう一つの意外な展開です。

予備役編入からわずか2か月余の1945年7月16日、富永は満州の「根こそぎ動員」師団である第139師団(敦化)の師団長として再召集されます。

理由は「師団長の適任者が乏しく、人事当局が人選に苦慮した」ためとされています。

そして敗戦。富永はソ連に抑留され、ハバロフスクを経てモスクワのルビャンカ監獄に送られ、長期の尋問を受けました。

日本の軍法会議に一度もかけられなかった富永を、唯一裁いたのは、敵国ソ連の軍事法廷でした。

死刑に該当する罪2件がそれぞれ25年に減刑され、合計75年の刑。

これは後に富永本人が国会で証言した数字です。

ただし、ソ連側の訴因は対ソ諜報・作戦関係であり、フィリピンの件で裁かれたのではないことには注意が必要です。

その後タイシェット地区の収容所で労働に従事し、1954年11月に釈放。1955年4月18日、興安丸で舞鶴港に帰国しました。

「私が皆悪い」国会会議録に残る肉声

帰国翌月の1955年5月12日、富永は引揚者代表の一人として参議院社会労働委員会に出席します。国会会議録という第一級の一次資料に、彼の肉声が残っています。

「敗軍の将たる私が、別に私から御説明申すことは一言もなく」。

帰国直後に週刊誌などでフィリピン航空戦をめぐる批判記事が出ていたことについては「皆、私の不徳不敏のいたすところでございまして」。部下に責任があるのではと問われると、「全くそうではない。私が皆悪い」。

この答弁を潔いと見るか、引揚問題という議題の場での儀礼的な言葉と見るかは、解釈が分かれるところです。実際、会議録を見る限り、フィリピン脱出の経緯そのものを釈明した発言は見当たりません。彼が撤退について公に語った記録は、これ以外に確認されていないのです。

そして、もう一つ書かなければならないことがあります。富永の長男・靖は、特別操縦見習士官1期(学徒から操縦者を短期養成した制度)出身の特攻隊員でした。父の台湾撤退から4か月後の1945年5月25日、父から贈られた日章旗を携え、爆装した四式戦闘機で宮崎の都城東飛行場から沖縄へ出撃し、戦死しています(戦死後、陸軍大尉に進級)。「後を追う」と言った父は生き、息子は還りませんでした。

富永恭次は1960年1月14日、東京都世田谷区の自宅で心臓衰弱のため死去します。68歳でした。

それから43年後の2003年6月4日、参議院憲法調査会の公聴会で、一人の公述人が富永の名を挙げました。戦時中、マニラの第4航空軍司令部で諜報を担当していた尾形憲・法政大学名誉教授です。

尾形氏は、富永司令官が特攻隊員に「最後には私も参謀長の操縦する飛行機でおまえたちに続く」と約束しながら、米軍上陸後に台湾へ逃れたことを、実名で批判する公述を行いました。半世紀以上を経てなお、元部下が国会の場で語らずにいられなかった記憶です。

裁かれなかったのは、誰か

富永恭次を「卑怯な将軍」と断じて終えるのは簡単です。

しかし、この話の本当の重さは別のところにあると思います。

条文の上では死刑すらありえた行為が、待命と予備役編入で処理された。それは富永が特別だったからではなく、将官の失態を人事で処理し、責任が公になる法廷を避けるという慣行が、組織に組み込まれていたからでした。佐藤幸徳の事例では、その動機。

上層部の責任が公になることへの恐れ…がはっきり記録されています。裁かなかったのは、個人をかばうためというより、組織そのものを審理から守るためだったのです。

失敗の責任を問う手続きを組織が持たないとき、あるいは持っていても使わないとき、何が起きるか。

責任は個人の「不徳不敏」という言葉に回収され、構造は検証されないまま残ります。

命じられた側の佐々木友次伍長は命令に背いて9回生還し、命じた側の司令官は戦場を離れて生き延び、そのどちらも日本の法廷で裁かれることはありませんでした。

これは80年前の陸軍だけの話でしょうか。責任を「人事」で処理して、手続きによる検証を避ける組織を、私たちは現在形で知らないでしょうか。富永恭次という一人の将軍の話は、そこまで考えたとき、初めて他人事でなくなる気がします。


参考文献・参照URL

公的機関・一次資料

  • 国会会議録:参議院社会労働委員会 1955年5月12日(富永恭次本人の発言) https://kokkai.ndl.go.jp/txt/102214410X00519550512/121
  • 国会会議録:衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 1955年6月9日(富永恭次本人の発言) https://kokkai.ndl.go.jp/txt/102203933X00319550609/94
  • 国会会議録:参議院憲法調査会公聴会 2003年6月4日(尾形憲公述) https://kokkai.ndl.go.jp/txt/115614187X00120030604/101
  • 国立国会図書館 日本法令索引「陸軍刑法」 https://hourei.ndl.go.jp/simple/detail?lawId=0000009999&current=-1
  • 国立国会図書館 レファレンス協同データベース(富永恭次の戦後) https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000057719&page=ref_view
  • アジア歴史資料センター 人物典拠「富永恭次」 https://www.jacar.archives.go.jp/das/term/00000668
  • 防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索 https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/
  • 戦史叢書第048巻『比島捷号陸軍航空作戦』(電子版) https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=048
  • 太平洋戦争戦没者慰霊協会「史上最悪の作戦と師団長の抗命」(PDF) https://www.ireikyou.com/pdf/memo/memo-033.pdf

新聞・出版社系

  • 東京新聞「〈近代茨城の肖像〉(10)万朶隊 陸軍最初の特別攻撃隊」(2022年8月14日) https://www.tokyo-np.co.jp/article/195797
  • 西日本新聞「命の大切さ訴えた特攻隊長 豊前市出身の旧陸軍・岩本益臣大尉」 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/537448/
  • 日刊ゲンダイ・保阪正康「日本史縦横無尽」万朶隊の回(2019年6月12日) https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/255943
  • 現代ビジネス(講談社)・鴻上尚史「9回出撃して、9回生きて帰った特攻隊員の『その後の人生』」 https://gendai.media/articles/-/135183
  • 現代ビジネス(講談社)・神立尚紀(富永の訓示と台湾撤退への言及) https://gendai.media/articles/-/140805
  • 講談社BOOK倶楽部『不死身の特攻兵』紹介 https://news.kodansha.co.jp/books/5707
  • 文藝春秋『陸軍特別攻撃隊』書誌 https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784168130779 / https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784168130793
  • カドブン(KADOKAWA)・大木毅解説「再び示された存在意義――高木俊朗『特攻基地 知覧』」 https://kadobun.jp/reviews/review/entry-120891.html
  • コトバンク「富永恭次」 https://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E6%81%AD%E6%AC%A1-1095078
  • コトバンク「北部仏印進駐」 https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E9%83%A8%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90-132778

主要参考文献(書籍)

  • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』全3巻(文藝春秋、1974–75年/文春学藝ライブラリー)
  • 高木俊朗『抗命―インパール作戦 烈師団長発狂す』(文藝春秋、1966年)
  • 鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書、2017年)
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』(東京大学出版会、2005年)
  • 藤井非三四『陸軍人事』『昭和の陸軍人事』(光人社NF文庫、2013・2015年)
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 比島捷号陸軍航空作戦』(朝雲新聞社、1971年)
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 捷号陸軍作戦(2)ルソン決戦』(朝雲新聞社、1974年)
  • 高橋秀治『第四航空軍の最後』(光人社NF文庫、2015年)
  • 瓜生良介『証言記録 敵前逃亡―生きている陸軍刑法』(1974年)

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