インパール作戦はなぜ止まらなかったのか。「察し合い」が3万人を死なせた構造

1944年、ビルマ(現ミャンマー)からインド北東部の要衝インパールを目指した日本軍の攻勢は、参加兵力約9万のうちおよそ3万人が命を落とす結果に終わりました。

厚生労働省はインド地域の戦没者を「約3万柱」とし、NHKの集計では死者約3万・戦傷病者約4万。

戦死・戦病死・撤退後の死亡をどこまで含めるかで数字には幅がありますが、死者の大半が戦闘ではなく飢えと病によるものだったこと、撤退路が「白骨街道」と呼ばれたことは、多くの帰還兵の手記が裏づけています。

「無謀な作戦」。インパールと聞けば、誰もがそう答えるでしょう。

では、なぜ誰も止められなかったのか。そう問われると、答えられる人は意外に少ないのではないでしょうか。

司令官・牟田口廉也中将ひとりの暴走として語られがちなこの作戦を、今回は「意思決定の構造」から見ていきます。誰が、いつ、何を知っていて、何をしなかったのか。事実を積み上げると、一人の怪物の物語とはまったく違う風景が見えてきます。

言い出した本人が、最初は反対していた

意外に知られていない事実から始めます。牟田口は、もともとインド進攻に反対した側の人間でした。

1942年、南方軍(東南アジア方面を統括した総軍)が発案したインド進攻計画「21号作戦」が検討された際、第18師団(師団は陸軍の基本となる作戦単位)の師団長だった牟田口は「兵站道路の構築、補給体系の確立準備などの点からあまりに時間的余裕なく、実現の見込みはないと思う」と意見を述べています(公刊戦史『戦史叢書 ビルマ攻略作戦』)。兵站、すなわち前線への補給が続かないから無理だ…後に部下たちが唱えて更迭(解任)される、まさにその理由です。計画は無期延期となりました。

転機は1943年初めでした。英軍のウィンゲート旅団が、「大部隊は通れない」とされていたアラカン山系を踏破してビルマに侵入したのです。牟田口は「地形の認識に重大なる過失をおかしていた」と衝撃を受けます(牟田口「インパール作戦回想録その一」)。その衝撃はやがて、「英軍にできたなら日本軍にもできる」という逆方向の確信に変わりました。

第15軍司令官となった牟田口の構想は、当初の「ビルマ防衛のための攻勢」から、本人の中で「インド解放、英国の戦争離脱、大戦の大転換」へと膨らんでいきます。『戦史叢書 インパール作戦』には、盧溝橋事件の現場指揮官だった牟田口の「自分が盧溝橋事件で大東亜戦争のきっかけを作ったので、自分がインドに進攻し……できれば、男子の本懐すぐることなし」という考えが記録されています。補給の専門的懸念は、個人の使命感の前に後景へ退きました。

反対者が、一人ずつ消えていく

作戦が決まるまでの過程を追うと、反対した者が順に排除・無力化されていく構造が浮かび上がります。防衛研究所の荒川憲一氏の論文が、一次資料を突き合わせてこの経緯を整理しています。

  • 小畑信良・第15軍参謀長。輜重兵科(補給部隊)出身で陸大を出た、陸軍でも数少ない兵站の専門家でした。着任後みずから航空偵察で予想進撃路を視察し、峻険な山岳地帯では補給の維持が困難と判断して作戦中止を求めましたが、却下されます。師団長を通じて再考を促そうとしたことが牟田口の逆鱗に触れ、1943年5月、着任わずか2か月余りで更迭されました。
  • 稲田正純・南方軍総参謀副長。作戦案を「持てるだけの弾薬・糧秣でチンドウィン河を渡り、道なきアラカン山系を突破し、食が尽きたら奪取したインパールの糧で賄うという、まことに虫のいい獲らぬ狸の皮算用」と日記に書き残し、「やり方を変えない限りやらせない」方針を貫いていましたが、1943年10月、突然の転属命令で第一線を離れます。
  • 片倉衷・ビルマ方面軍高級参謀。方面軍とは、第15軍などの複数の軍を束ねる上級司令部です。片倉は「再三の勧告にも作戦案を修正しない第15軍の態度は命令違反だ」と処断を進言しましたが、河辺正三・方面軍司令官は「第15軍の作戦構想に容喙するもの」として却下しました。
  • 真田穣一郎・参謀本部第一部長。反対の意向を示しましたが、杉山元参謀総長に説得され、了承に転じました。

注目すべきは、牟田口の上に立つ3人…河辺方面軍司令官、寺内寿一南方軍総司令官、杉山参謀総長…が、いずれも「基本的に牟田口の思い通りにやらせればよい」と考えていたことです。河辺は盧溝橋事件当時の牟田口の直属上司で、二人の関係はそこから続いていました。組織の階層は存在していたのに、抑制装置としては機能していなかったのです。

天皇の決裁を経ない「大陸指」で動き出した

1944年1月7日、大本営(陸海軍を統帥する最高機関)はウ号作戦(インパール作戦)を認可します。ここに見落とされがちな事実があります。この認可は、天皇の決裁を要する「大陸命」ではなく、事後報告で済む「大陸指」(大陸指第1776号)で発せられていました。史上最悪と呼ばれることになる作戦は、正面の御前決裁を経ない形式で動き出していたのです。

大本営側にも事情がありました。1943年、太平洋正面で日本軍は総崩れとなり、「どこかで攻勢をとって主導権を奪回せねば」という焦りが広がっていました。荒川論文は、作戦課長に返り咲いた服部卓四郎が中国大陸での大陸打通作戦(1号作戦)を構想しており、インパール作戦を「連合軍を牽制し1号作戦に寄与する」ものとして黙認した可能性を指摘しています。政治面では、自由インド仮政府首班チャンドラ・ボースの存在がありました。1943年7月にボースと会見した河辺は「インド進攻作戦が大東亜戦争に大きな意義を発する」と確信するに至り、東條英機首相も対インド施策を重視していたと伝えられます。

皮肉なことに、この攻勢は敵の望むところでした。1943年10月、チャーチルはマウントバッテンに「日本軍に執拗に接触・挑発し続けて疲れさせ、太平洋正面からビルマへ日本軍戦力を吸引せよ」とすでに指令していました。英軍は1944年2月頃までに作戦の全容を把握し、スリム中将はインパール平原に日本軍を引き込んで撃滅する計画を立てていました。日本側が攻勢に熱を入れるほど、連合軍の狙いどおりに事が運ぶ構図だったのです。

作戦中に、3人の師団長全員が消えた

1944年3月8日に作戦が始まると、破綻は急速に現れます。牟田口は「英印軍は中国軍より弱い。補給についてとやかく心配することは誤りである」と明言していましたが(『戦史叢書 インパール作戦』)、補給は続きませんでした。

そして異常な事態が起きます。作戦中に、参加3個師団の師団長が全員交代したのです。

  • 柳田元三・第33師団長は、指揮に問題ありとして5月初めに更迭。
  • 山内正文・第15師団長は、病気を理由に5月末頃更迭。ただし病状悪化は周囲が秘匿しており、荒川論文は実際の理由を「指揮ぶりが牟田口の意にそぐわなかったこと」と推測しています。
  • 佐藤幸徳・第31師団長は、5月25日「6月1日までにコヒマを撤退し補給を受け得る地点に移動せんとす」と打電して独断撤退。日本陸軍史上最大級の抗命(命令拒否)事件です。7月に解任されましたが、軍法会議は開かれず、「心神喪失」として予備役編入となりました(将官が軍法会議を免れる構造については、当ブログの富永恭次の記事で詳しく扱っています)。

更迭された3人に共通するのは、全員が牟田口構想に不同意だったことです。しかも1943年以降の重要な会同・兵棋演習(図上での作戦演習)に、第31・第33師団長は一度も参加していませんでした。作戦を実行する当の師団長たちが、計画段階から外されていたのです。

「私はただ私の顔色によって察してもらいたかった」

この作戦の核心と呼ぶべき場面は、1944年6月6日に訪れます。戦況が絶望的となる中、河辺方面軍司令官が前線の牟田口を訪ねました。

このとき何が起きたか…正確には、何が起きなかったかは、伝聞ではなく双方の文書に残っています。牟田口は戦後こう回想しました。

私は「もはやインパール作戦は断念すべき時機」であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである

一方の河辺は、その日の日記にこう記しています。

牟田口軍司令官の面上にはなお言わんと欲して言い得ざる何物かの有する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る

言いたいことがあるのは分かった。しかし、あえて問いたださずに別れた…。両者の記録は『戦史叢書 インパール作戦』に収められています。中止を切り出せば責任問題になる。だから互いに「察し」を待った。荒川論文は「かくして両者は決断を先送りし、多くの将兵の命が救われる機会を逸した」と結論づけています。

この先送りの代償は、数字で示せます。荒川論文の集計によれば、第15師団と第33師団で最終的に判明した死亡者13,376名のうち、7,500名余りが6月以降に死亡しています。両師団の死者の過半は、二人が中止を言い出せなかった後の期間に生じたのです。

作戦を最終的に止めたのは、人間の決断ではありませんでした。コヒマ–インパール道が英印軍に打通された(押し破られ、開通された)という「覆い隠せない現実」です。1944年7月1日に大本営が中止を上奏し、7月3日に南方軍から中止命令が出ました。撤退路では飢えと病に倒れる将兵が続出し、手榴弾で自決する兵がいたことが複数の手記に記録されています。街道は「白骨街道」と呼ばれました。

敵将は「精神的勇気の欠如」と見抜いていた

この構造を、敵将は正確に見抜いていました。英第14軍を率いたスリム中将(後に元帥)は、1956年の回想録『Defeat into Victory』で、日本軍指揮官の根本的欠陥を「肉体的勇気とは区別される、精神的勇気(moral courage)の欠如」と分析しています。彼らは誤りを認めて計画を練り直す代わりに、手持ちの資源では不可能と知りながら、受け取った命令をそのまま部下に流し続けた…。『失敗の本質』(1984年)に先立つこと約30年、敗因の核心を突いた指摘でした。

なお英国側では、この戦いは日本とはまったく違う位置づけにあります。2013年、英国立陸軍博物館の企画投票「Britain’s Greatest Battle」で、インパール・コヒマの戦いはノルマンディー上陸作戦やワーテルローを抑えて1位に選ばれました。激戦地コヒマの英連邦戦争墓地には「故郷に帰ったら伝えてくれ。君たちの明日のために、我々は今日を捧げたと」という碑文が刻まれています。日本では「史上最悪の作戦」、英国では「最大の戦い」。同じ戦場をめぐる、この非対称も記憶しておきたい事実です。

「殆ど総てが非」から「神のお告げ」へ…牟田口の晩年

牟田口は1944年8月末に第15軍司令官を罷免され、12月に予備役編入となりました。しかし翌1945年1月には召集され、陸軍予科士官学校長として終戦を迎えます。軍法会議にかけられることはありませんでした。

その晩年には、あまり知られていない振れ幅があります。1956年の「インパール作戦回想録その一」で、牟田口は「私の統率なり判断ぶりは殆ど総てが非であったと思われてならない」と自省の言葉を残していました。

それを覆したのが、1962年に届いた一通の手紙です。元英第14軍参謀バーカー中佐から「貴殿の優秀な統率のもとに、日本軍のインド攻略作戦は90%成功しました」という趣旨の手紙を受け取った牟田口は、これを「神のお告げ」と呼んで歓喜し、「わたしは間違っていなかった。なにも恥じることはなかったのだ」と書きました。以後、追撃を止めた河辺への恨みまで書き残し、自己弁護の文書をまとめています。この弁明資料「1944年『ウ』号作戦に関する国会図書館における説明資料」は、いまも国会図書館に現存します。

高木俊朗の戦記には、葬儀でこの資料の別刷りが参列者に配布されたと記されています。ただし近年の検証(関口高史氏)では、配布の事実は確認できなかったとされます。

一方で、死去1か月前には、こんな発言も記録されています。「たとえ、バーカー中佐の証言によって間違っていなかったことを確認しえたとしても、インパール街道で数万の部下を死なせたという事実は、決して消えはしない。やはり、私の心は生きているかぎり、晴やしないのです」。1966年8月、77歳で死去しました。自省と自己弁護のあいだを揺れ続けた晩年だったと言えるでしょう。

「インパール」はなぜ現代の比喩になったのか

『失敗の本質』(戸部良一・野中郁次郎ほか、1984年)は、インパール作戦を日本軍の組織的失敗の典型例として分析しました。防衛目的だった作戦が個人の使命感で攻勢作戦に変質し、「情実・人間関係」による意思決定で認可されていく過程。本来は官僚制の硬直化を補うはずの人間関係や組織内融和の重視が、逆に組織の合理性を歪める「逆機能」を生んだ、という指摘です。

現代のビジネスメディアでも、インパール作戦は「合理性より人間関係と空気で突き進む組織」の代名詞として繰り返し引用されています。日経ビジネスは、誰もが「おかしい」と思っていても組織内でそれを口にする者がおらず深みにはまっていく構造を、現代企業の不祥事と重ねて論じました。

こうして経緯を追い直すと、この作戦の恐ろしさは、特別に愚かな人間がいたことではなく、どの場面の登場人物も「組織人として、ありうる振る舞い」をしていたことにあるように思えます。反対意見を述べた者は左遷され、残った者は沈黙し、上位者は部下の顔を立て、責任を伴う決断は互いに相手へ委ねられた。牟田口自身、2年前には補給を理由に反対する側にいた人物でした。

コヒマの丘とインパールの平原に倒れた約3万の将兵に、思いを向けたいところです。そのうえで、最後にひとつだけ。言葉にされないまま、誰かの「察し」を待って先送りされている案件は(規模こそ違え)今日の私たちの組織にも、ないと言い切れるでしょうか。


参考文献・参照URL

  • 荒川憲一「日本の戦争指導におけるビルマ戦線―インパール作戦を中心に―」防衛研究所(PDF) https://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2002/forum_j2002_11.pdf
  • 厚生労働省「戦没者慰霊事業:インド平和記念碑」 https://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/seido01/ireihi12.html
  • 岩波書店『戦慄の記録 インパール』(NHKスペシャル取材班) https://www.iwanami.co.jp/book/b371349.html
  • 同・岩波現代文庫版 https://www.iwanami.co.jp/book/b628058.html
  • NHKエンタープライズ「戦慄の記録 インパール 完全版」 https://www.nhk-ep.com/products/detail/h23065AA
  • BOOKウォッチ(J-CAST)書評 https://books.j-cast.com/2018/11/24008270.html
  • 文春オンライン(高木俊朗『全滅・憤死 インパール3』抜粋) https://bunshun.jp/articles/-/39659
  • 文春オンライン(笠井亮平『インパールの戦い』抜粋・前編) https://bunshun.jp/articles/-/72335
  • 同・後編 https://bunshun.jp/articles/-/72336
  • 文藝春秋BOOKS 笠井亮平『インパールの戦い』ためし読み https://books.bunshun.jp/articles/-/6406
  • 中央公論新社『失敗の本質』特設ページ https://www.chuko.co.jp/special/shippaino-honshitsu/
  • 紀伊國屋書店 関口高史『牟田口廉也とインパール作戦』(光文社新書) https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784334046163
  • 日経ビジネス(吉野次郎) https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00372/101800002/
  • 現代ビジネス(広中一成) https://gendai.media/articles/-/56995
  • Encyclopedia.com「Kohima Memorial」 https://www.encyclopedia.com/humanities/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/kohima-memorial
  • Goodreads: Defeat Into Victory 原文引用 https://www.goodreads.com/work/quotes/422737-defeat-into-victory-the-magnificent-account-of-a-great-campaign-of-the
  • Wikipedia「牟田口廉也」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F
  • Wikipedia「小畑信良」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%91%E4%BF%A1%E8%89%AF
  • Wikipedia「佐藤幸徳」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B9%B8%E5%BE%B3
  • Wikipedia「河辺正三」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E6%AD%A3%E4%B8%89

(主要参照文献:防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 インパール作戦』『戦史叢書 ビルマ攻略作戦』朝雲新聞社、1968年/牟田口廉也「インパール作戦回想録その一」1956年(防衛研究所図書館所蔵)/片倉衷『インパール作戦秘史』経済往来社、1975年/高木俊朗『憤死』『抗命』ほか/Viscount Slim, Defeat Into Victory, Cassell, 1956)

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